〜「ベリーダンス」って言葉はアメリカ“シカゴ”で生まれた?!〜
公にされていない、歴史的背景から誕生した“ベリーダンス”と言う言葉
確かにベリーダンスって名前は知ってるけど
ベリーダンスってそもそも何??
言葉の由来とかもあるの???
やほーユイうさだよー♪
今じゃ、当たり前にベリーダンスってみんな言ってるけど
意外に名前の意味と、どこの踊りとか知らない人多いよねー
あっちなみにベリーダンスのベリーは英語で“お腹”って意味になるよー
へー!ベリーって英語でお腹って意味だったんだ!
だから、お腹を出して踊るの??
そう思うよねー
ユイうさも初めはそう思ってたーw
でも、調べてみると
いろんなストーリーがあって一言で説明するのは難しいの
そもそもエジプト・トルコ発祥と言われてて
現地の言葉は英語ではないし
え??
じゃあ、なぜ英語で言われてるの?
気になる気になる??
そしたら、いちごちゃんにユイうさが分かりやすく
『“ベリーダンス”の言葉が誕生するまでの物語』を語っていこうかな♪
えー!聞きたい聞きたい!
じゃあタイムスリップして
昔にレッツゴー!
当時の歴史的背景もあり、とても興味深いものでした。
“ベリーダンス”の言葉が誕生するまでのストーリー、
それを知る事でベリーダンスの奥深さを垣間見る事が出来るかと思います。
では、いってみましょう♪
ユイうさなりに色々調べてまとめてみたよ♪
でも、あくまで個人がまとめた情報で専門家では無いから
一個人の情報&感想として読んでね♡てへw
1:『ベリーダンス』と言う言葉はアメリカで生まれた??
ある一人のアメリカ人が「Belly Dancing!!」って言った
その一言で『ベリーダンス』って言葉が生まれたそうだよ!
どこで、誰が言ったのか?
今から129年前に遡ってみてみよう♪
⑴“ベリーダンス”はシカゴ万国博覧会がキッカケ?シカゴ万博とは?
“ベリーダンス”の名前が生まれたのは19世紀!ちょうど日本は“明治時代”の時期ですね。
へー意外とそこまで昔では無いのね!
アメリカ合衆国イリノイ州のシカゴで開催された、
シカゴ万国博覧会(1893年5月1日〜10月3日まで開催)。
その大規模な敷地の一つ、
アミューズメントパークとも言われた『Midway Plaisance(ミッドウェイ・プレザンス)』区域にて、
“エジプシャンシアター”が行われていました。
あっ
もしかして、ここで“ベリーダンス”が踊られたのかな?
そして
“コロンブスによる新大陸発見400周年”を記念して
「シカゴ・コロンブス万国博覧会」とも呼ばれ、19ヶ国が参加したそうです。
万国博覧会は
アメリカ大陸の植民地化を祝う舞台でもあったんだって
もちろん日本国も参加してたよー!
ちなみに皆さんもご存知エジソン!
万博会で電気が大活躍されたとか!
ただ電気をつけるのではなく、会場内に電力を供給させ、
建物の電灯のライトアップや夜間のイルミネーションまで!
当時、ライトアップやイルミネーションは世界初!
初めて目にする人々は驚きを隠せなかったそうです。
今でいう遊園地のような雰囲気だったのでしょうか?
イルミネーションって
この時に生まれたのね!素敵✨
まさに新しい化学技術時代の始まりですね!
今じゃ当たり前の夜を彩るイルミネーション
ここから世界に広まっていったんだね
(※ちなみにライトアップ、イルミネーションを考えたのはエジソンではなく、元部下でライバル的な人物。
これはこれで話が長くなるので、気になる方は以下動画(11:05)か『電流戦争』で調べてみて下さいね♪)
そして
アメリカが開催した博覧会の中で最も規模が大きく入場数が多かったそうです。
どれぐらいかと言うと約2,752万9,000人にのぼったとか!
人数だけ聞くとよく分からないよねw
当時、アメリカ国民人口の半分の入場者数だったんだって!
そう考えると凄いよね!
⑵あの『ディズニーランド』もシカゴ万博がキッカケ??
ここはベリーダンス関係ないけど
ディズニー好きだから余談で入れたよw
なんとウォルト・ディズニーの『父Elias Disney(エリアス・ディズニー)』が工事作業員として関わっていました!
作家のエリック・ラーソンは
“このイベントが息子ウォルトと彼の、
のちに作ることになるディズニー王国のインスピレーションの源になった”
と示唆されている。
他にも世界初の巨大観覧車!
アジアや中近東の異国情緒溢れる建物やダンスショー!
夜には建物のライトアップや夜間のイルミネーションまで!
まさに!今の遊園地やディズニーランドの原型だったのでしょうね♪
この経験が
ディズニーランドに大きく影響していたと思うと、とても興味深いですね!
下の動画(2:58)は当時のシカゴ万博の様子を簡潔にまとめたものだよ
(イルミネーション風景は1:40あたり)
当時の映像を見ると、とても賑わっていたのが分かるね!
更に詳しく説明している動画(10:36)も見つけたよ
興味ある方は観てみてね♪
更に余談になるけど
日本は
京都の宇治にある『平等院鳳凰堂』を
模した木造の建物『Phoenix Pavilion(鳳凰殿)』を建築したんだって
残念ながら
鳳凰殿は放火によってもう無いのですが、
のちに、跡地に日本庭園を修復構築!
現在はジャクソンパークとなり、
日本庭園は「大阪ガーデン」と改名され、
名残で「The Garden of the Phoenix(鳳凰の庭園)」とも呼ばれているそうです。
へー
シカゴに行くことがあれば、ジャクソンパーク立ち寄ってみたいなー
⑶当時は衝撃過ぎる格好に、踊りだった?心臓発作を起こした人まで??
シリア、トルコ、アルジェリアなど、中東や北アフリカの国々の本格的なダンスを披露する中で
“ベリーダンス”は観客達の衝撃を一番受けたそうです。
どう衝撃を受けたかというと
ベリーダンスの格好は奇抜で腰を動かすなど下品で、はしたない!と非難されたのです。
うーん
イッツ、クレイジー!
アンビリーバボー!!的な衝撃だったのかな?
なぜなら
19世紀のファッションは
エレガントで優雅な『ヴィクトリア朝時代(1837年〜1901年)』(※シカゴ万博は1893年)
ちなみに今ではウェディングドレスと言えば『白』が定番だけど
当時は色物が普通で、
イギリスのヴィクトリア女王が結婚式に白のウェディングドレスを着てから
『白』が定着したんだって。
それほど
ヴィクトリア女王の影響は大きく、世の女性の見本だったみたい!
今で言うカリスマ的存在だったんだね♪
この時代はコルセットで締め上げた細身のウエストが大人気!
知ってる!
なんでもコルセットで締めすぎで
気絶する人が多かったって聞いたことあるわ
なんでも
気絶する女性は“か弱く”見えて
殿方からしたら、“守ってあげたい”って思わせたとか
美しく気絶できるかどうか
当時、気絶用の椅子まであったんだって。
みんなは真似しないでね!健康第一!w
ちょっと前、18世紀ごろの出来事をリアルにまとめてる動画(4:26)を見つけました!
少し序盤衝撃的なので
ご興味ある方だけ、ご覧ください。
他にも
19世紀のデートを分かりやすくまとめた動画(14:25)も見つけました!
現代人からしたらシュールな事が多すぎて面白かったので
ぜひ、観て見てくださいねw
更に
実際に19世紀に着替えてみたって動画(9:44)もあったので
当時のファッションにも興味ある方は、ぜひ観てくださいね。
(7:50あたりが1893年ファッションだそうです)
今だったら
何枚着るねん!って
大阪弁でツッコみたくなるぐらいだねw
色々お話ししましたが、服装モラル!
それこそが主流で当たり前の時代だったのです。
世の女性は
せっせこウエスト細身を目指し、気絶しながらも頑張って、
締め上げファッション努力してる最中の目の前に
急にお腹を出し、踊り出す女性が現れたら、、、そりゃー、、ビビりますわなw
ある意味
当時の世の女性からしたら
奇抜すぎるファッションは
勇者だよねw
余談ですが、
『トム・ソーヤーの冒険』の著者マーク・トウェイン氏が
ベリーダンスを見て心臓発作を起こしたという伝説が!
でも、この話は
“作り話”ではないかって言われてて
本当の所、どうか分からないの
でも、当時の時代背景から見ても
紳士なおじいちゃんには
刺激が強すぎるのは間違いないよね
今だと普通だけど
当時はコルセットもパニエも履かず
むしろ、「お腹出して下品極まりない!」って
感じだったのかもね💦
ですが!
その“ベリーダンス”の注目は止まらなかったそうです!
2:ベリーダンスを踊ったダンサーとは?
シカゴ万博でベリーダンスを披露したダンサー『Fatima(ファティマ)』
ファティマはダンサー名で
本名は“Fahreda Mazar Spyropoulos(ファリダ・マザール・スパイロプロス)”
彼女は1871年にシリアで生まれました。
国名は『シリア・アラブ共和国』
中東のレバントに位置する共和制国家※!
(※簡単に言うと王でなく、人民が政治を行う国家ってことだよ♪)
へー
『シリア』って周りの色んな国に囲まれた国なんだね
ファティマは1881年に
アリゾナ州トゥームストーンのバードケージシアターでキャリアをスタートさせた。
当時10歳!めちゃんこ若いね!
その後
1983年のシカゴ万博
『Midway Plaisance(ミッドウェイ・プレザンス)』区域
そこのエジプシャンシアターにて
『A Streee in Cairo=カイロの街路』の演目で
“The Algerian Dancers of Morocco=モロッコのアルジェリアダンサー達”としてファティマも踊りました。
ん?
彼女シリア人よね?
エジプト人でも、モロッコ人でも、アルジェリア人でもないのに
その中で踊っていたの?
そう見たいだね!w
当時スタンダートな格好は「フルスカート」に「コルセット」!
だけど、そんな中ファティマは
「ガーゼシャツとベスト」&「足首までのスカート」姿でステージに登場したらしいよ!
えー!そうなの?
当時12歳よね?凄い勇気ね!
ちなみに
『Those who witnessed this hypnotic dance called it mistakenly so, the ‘Dance of the Orient’.』
“目撃した人たちは この催眠術のようなダンスは 「東洋の踊り」と間違えて呼んでしまった。”
と違う踊りを披露した、と言っている人もいたよ。
催眠術って凄い表現だよねw
なんと当時ファティマが踊っていたであろう映像を見つけました!
北米のピューリタン社会にこう記述があった。
ダンサーの「不品行」に憤慨し、ベリーダンスをストリップと関連付けたのである。
しかし、このベリーダンスは、本格的なものにはほど遠く、むしろ観客の目を楽しませるものであった。
彼女のパフォーマンスは、シカゴ万博で唯一、
世界初の大型観覧車よりも
多くのお金を集めたアトラクションと言われています。
大観覧車よりって、凄い人気だったんだね
さまざまな参考文献や歴史書によると、
実際、彼女はセンセーションを巻き起こし、そのエキゾチックなパフォーマンスに全米から人々が集まり、財政難の博覧会を破滅から救ったダンススターであった。
とする説もありました。
アメリカの財政難まで救ったって
ファティマは伝説的トップスターだったんだね!
シカゴ万博終了後もファティマの「エキゾチックな踊り」は
ニューヨークの近郊型リゾート観光地でもあるコニーアイランドの
『A Streee in Cairo=カイロの街路』セクションの常連アトラクションとなったそうです。
3:ベリーダンスの名付け親となった“ソル・ブルーム”とは何者??
Sol Bloom(ソル・ブルーム)
1870年ニューヨーク出身
ソングライター、楽譜出版、アメリカの政治家まで勤めました。
そして、シカゴ万博の『ミッドウェイ・プレザンス』区域の支配人に任命された人物でもあります。
へー
やり手ビジネスマンだったのね!
⑴なぜ、シカゴ万博にダンサーを?
ソイ・ブルームは
シカゴ万博(1893年)の一つ前、パリ万博(1889年)で
北アフリカや中東のダンサーがアトラクションとして成功したのを見て
「これらのダンサーはアメリカでもウケるぞ!」と確信したそうです。
実際にソイ・ブルーム本人の記述
さすが
やり手ビジネスマン!
要は「これらを使ってお金儲けしてやる!」って考えたんだね
しかも当時19歳!
イケイケどんどん!だね♪
そして
ソイ・ブルームは
その芸人たちを北米と南米でショーに出す2年間の独占契約を結んだそうです。
⑵なぜ、わざわざベリーダンスと言ったのか?
ブルームは回顧録の中でこのように述べている。
もう完全にソイ・ブルームの思うツボだねw
この商売人め!って感じだよね
ですが、他にも
「官能的で刺激的、リズムと美の傑作」と賞賛した。とも述べている。
まぁ、ベリーダンスの演目に力を入れていたのは間違いないみたいね
シカゴ・トリビューン紙に寄せた手紙の書き手に、その動きを「腹部の旋回」と表現する者もおり、
またプリンストン・ユニオン紙の記者は、「地獄のような歪み」と「ベリーダンスと呼ばれる忌まわしいもの」と書いた。
まとめると
みんなの最初の関心を集めるために
わざわざ『ベリーダンス(お腹の踊り)』と言ったんだろうね
そして、
アメリカ人にベリーダンスを紹介しただけでなく、
ブルームはもうひとつのアラビアン・ファンタジーを作り出したと主張している。
万国博覧会終了後、
ソイ・ブルームは芸能活動を続け、
長年にわたり楽譜の出版や販売の仕事に携わっていたそうです。
1922年、52歳の時に政界入りし、ニューヨーク19区の民主党下院議員に当選!
ベリーダンスについては、他のプロモーターが
すぐにその成功に走り、全米の遊園地やカーニバルに登場するようになったとか。
1923年から1949年に亡くなるまで、
マンハッタン西側地区で14期にわたり合衆国下院議員を務め、
アメリカの外交政策にとって重要な時期にあった。らしいよ!
ひえー
最後まで凄い経歴を残した人なんだね
4:胃の踊り?お腹の踊り?
⑴他国から名付けられた“ベリーダンス”
ベリーダンスの言葉を広めた一人のアメリカン人。
シカゴ万博のディレクター「Sol Bloom(ソル・ブルーム)」
ソル・ブルームは当時フランス人が使っていた
フランス語の
「danse du ventre(ダンセ・デュ・ヴァントル)」を英語直訳で
『belly danceing(お腹の踊り)』と説明した。
初期のアメリカ人は
“The Abdomen Dance” または “Stomach Dance” と呼んでいた中、
最終的にほとんどのアメリカ人は “belly dance(ベリーダンス) “と呼ぶようになった。
まぁ、言い方が違うだけで
どれも意味は一緒なのかな?
ある記事にはこんな事が書かれていた。
これは初代リトル・エジプト(ファリダ・マザール・スパイロプロス[ダンサー名:ファティマ])が
エジプト劇場で悪名高いソイ・ブルームのために踊ったときに、
“ベリーダンス “という言葉を作ったのは彼であり、誤記である。
悪名高いって
ソイ・ブルームって人、嫌われてたのかしら?
この記事は
ファティマとブルームが作り出した踊りであって
もしかしたら、伝統的な踊りを
“ベリーダンス”と言う安易な言葉で片付けて欲しくない
って気持ちがこもっているのかもしれないね
ちなみに
フランス語の「danse du ventre(ダンセ・デュ・ヴァントル)」=直訳:ベリーダンス(胃,下腹の踊り)と言う言葉は
18世紀頃、
フランスの探検家達が旅をしている中で、
腹の部分がとても印象的に動かす踊りを目の当たりにし「danse du ventre(ダンセ・デュ・ヴァントル)」と言ったのが始まりだそうです。
1832年に北アフリカを訪れたフランスの画家ドラクロワは、この踊り手について次のような感想を述べている。
自然に近いって、私たちは哀れって、
このフランスの人は
縛られた人生をおくってたのかしら?
やっぱ、どの時代も
社会に縛られず、自由に生きたいのかもねー
今も昔も変わらないのかも
18〜19世紀の当時、
「エドワード・レーン」や「フローベール」といった中東を旅したヨーロッパ人が、
エジプトの「Awalim(アワリム)※」や「Ghawazi(ガワジー)※」など
そこで見た踊り手について幅広く記述が残ってました。
ちなみに初めて「danse du ventre(ダンセ・デュ・ヴァントル)」と言った人物までの記述は見当たらなかったです。
※Awalim(アワリム)・・・日本で言う花魁や女芸人の階級の人達で、貴族階級の王室で踊っていて、唯一王様の前で踊ることを許されたダンサー達
※Ghawazi(ガワジー)・・・エジプトの先住民のプロのダンサーの一部
いずれにしても、他国からしたら
器用に腹部を動かす踊りは、
当時はとても斬新で珍しいものだったのが分かりますね!
気づいたかも知れないけど
結局のところ、
フランス人やアメリカ人が
後から作った名前だったって事だよねw
確かに!
⑵“ベリーダンス”でなく、現地の呼び方は?
現地
アラビア語圏では「Raqs sharqiラクス シャルキ or Raqs Shaabiラクス シャービー」(東洋の踊り)
エジプトでは「Baladiバラディ」(直訳:国の、田舎、郷)“私の故郷の踊り”と呼ばれています。
と言うことは
正しく英語で直訳すると
『oriental dance オリエンタルダンス』=東洋の踊り
がしっくりくるのかな?
では、なぜ
現代『ベリーダンス』と言う言葉の方が浸透しているのか?
それはシカゴ万博後もベリーダンスを踊った“リトル・エジプト”達の踊りが
人々にかなりの衝撃を与え、強い印象を残したからだと記されています。
爆発的に人気になり、ブロードウェイやハリウッド映画、テレビ番組など、多くのメディアに出て
一大ブームを起こしたそうです。
なるほど!
その影響を受けて『ベリーダンス』と言う言葉は
世界中に浸透していったんだね
5:現代も“ベリーダンス”の言葉を巡って議論が絶えない?
ベリーダンスの語源となった
フランス語「danse du ventre(ダンセ・デュ・ヴァントル)」という言葉には、
もともと人種差別的な意味合いがあった。と示す記事もありました。
ベリーダンスという言葉を使うべきかどうか、という議論までに。
全体と、その部分の孤立した調和のとれた動きに基づいて、他のダンスでは他に類のないものなのです。 この用語が連想させる性差別的で、オリエンタルダンスを破壊的に単純化している。
“孤立した調和のとれた動き”
繊細さが言葉で伝わってくるね
だからこそ、単純化=過小評価しないでほしい
と思っているのだろうね
そのため、“ベリーダンス”という言葉を使うべきかどうか議論が絶えず
ある人は、
ベリーダンスを避け、オリエンタルダンスに置き換えるべきであり、 そうすれば、ベリーダンスにまつわる誤解を解くことができると考える。
またある人は、
ベリーダンスという言葉は、このダンスフォームを命名する最も有名な方法であり、今では人種差別的な意味合いを失っているため、このままでよい。
と、意見はさまざま。
ちなみに
アラビア語でオリエンタルダンスを意味する「Raqs sharqiラクス シャルキ」(東洋の踊り)は、
最近、ある特定のスタイルを指しているようで、Raqs shaabi(ラクス シャービー)、Baladi(バラディ)、アメリカントライバルなどのダンスは含まれていない。と。
ベリーダンサー兼講師の『Andrea Deagon’s(アンドレア・デゴン)』は、このダンスを“SITA(トルソー・アーティキュレーションに基づくソロ・インプロヴィゼーション・ダンス)”と呼ぶことを好んでいる。
私はこの言葉が好きですが、私たちが「ベリーダンス」と呼ぶもののすべてのタイプに当てはまるとは思いません。例えば、トライバルはグループで行われますし、ラクシャビも原産国以外で行われる場合は、即興ではなくグループで、振り付け通りに行われることがあります。
また、SITAは、モロッコのShikhatなど、私たちが「ベリーダンス」とは考えないようなダンスフォームを指すこともあります。
ですから、このダンスジャンルに何が含まれるのかを正確に定義することは、まだ難しいと私は思います。
ベリーダンスをひとつのジャンルとして語るのではなく、ラクス・シャールキ、アメリカン・トライバル、ラクス・バラディ、サビなど、これまでひとくくりにされてきたダンスを分離し、共通のルーツを持つ、別のジャンルとして扱うべきかもしれませんね。
すごく複雑で
一言で片付くような話題ではないけれど
それほどに奥深く、みんなに愛されている踊りと言うことは
とても伝わったわ
いろいろな議論もあり、
その結果、英語やハンガリー語ではオリエンタルダンスや東洋舞踊という名称が定着し、
エジプトのダンサーやマスターが国際的に存在感を増してきたおかげで、
本来のアラビア語の名称であるラクス・シャルキも広く知られるようになってきたそうです。
6:まとめ/今も愛される“ベリーダンス”
ベリーダンスはさまざまなダンススタイルが混在しているため、その起源もまちまち。
それはベリーダンスが最も歴史があるダンスだからでしょう。
多くの専門家も、ベリーダンスは最も古いダンスの形態の1つであると信じています。
ベリーダンスの進化
現在、ベリーダンスは世界中で楽しまれており、ほとんどの国で教えられています。
音楽と動きに喜びを見出し、国境を越え、
言葉を交わさずとも、即座にダンスだけでコミュニケーションが取れます。
素晴らしいコンテンツだと私は絶賛します。
ダンスで繋がるコミュニティー!素敵だね!
ちなみに
ベリーダンスの起源については諸説ありますが、
現代の多くの人々は単純に動きを楽しんだり、パフォーマンスを楽しみながら観覧しています。
歴史など知らなくても
今でもしっかりと人々に愛されているベリーダンス。
今後もベリーダンスが絶えず、人々を楽しませてくれる事でしょう。
そして、この記事を機にベリーダンスに興味を持ってくれたり、
更にベリーダンスが好きになって貰えたら幸いです。
よい、ベリーダンスライフを♪
✅合わせて読みたい関連記事
にほんブログ村
ベリーダンスランキング
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
🐰yuie公式ライン🐰▷こちら
ベリーダンスのイベントや、ミニクイズなど定期的に無料配信しています✨ぜひ、無料登録して下さいね🥺✨
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
とっても面白かったです。今あるイメージも興行の為につけられたものだったんですね。知らなかったことがわかり深まるともっと身近に感じられるようになりました。
ありがとうございます(^^)
どの時代も意外と一緒なんだなと思うと私も身近に感じれました
今後もさまざまな記事を書いていくので楽しみにしていてくださいね♡